椎谷観音堂略縁起

観音堂をお守りするために翌年華蔵院が増設された。

 今より1,200余年の昔、嵯峨天皇の弘仁2年(811年)のこと、当椎谷の海に毎夜不思議な光が現れました。村人達は何の光かと思い、網を下ろしますと正観世音菩薩の御像が上がりました。村人達は山の上に立派な御堂を建て、御像を安置しました。

 それから800年余の寛永元年(1624年)の冬、山伏がこのお堂に泊まり、暖を取るため仏像などを燃やし、本尊様をも燃やそうとしました。するとその瞬間轟然たる大音響、百雷が一時に落ちたかと思われるような恐ろしい音がし、お堂は焼け落ちてしまいました。村人たちが御堂に行き、火を消し本尊様の御像を探しましたが見当たりません。

 ちょうどこの時、佐渡の国羽茂郡宿根木村の丸山治久という人が有りました。最早50歳になるのに子どもがありません。そこで遙か海を隔てた椎谷の観音様のご利益を信仰し、何卒男の子を授け賜えと一心にお願いし、観音様のお告げを蒙って可愛らしい男の子を授かりました。名前を忠三郎とし、それはそれは大切に育てました。この忠三郎さんが世にも稀な天才児で、僅か2歳か3歳で立派に読み書きが出来ました。治久さん夫婦は愈愈可愛がって育てますうちに、寛永7年となり忠三郎さんが七歳の正月17日、別段苦しむ様子もなく眠るように息絶えてしまいました。葬儀を営むこととなり、時にお母さんが今一目と御棺の蓋を取ってみると、御棺の中には忠三郎さんの影も形もありませんでした。お母さんが不思議なことに思われて                               

    『玉手箱 両親ここに 置きながら 掛子は抜けて 何処なるらん』

と詠まれました。すると何処からともなく

    『吹き散らす 風にうらみは 春の花 紅葉の秋に 一葉残らん』

と言う返歌がありました。

 忠三郎さんが亡くなった前夜、椎谷観音堂の住職の夢に観音様が現れ、「我は佐渡の丸山治久が切なる願いに答えて、彼が一子忠三郎となって生まれたが、今又帰る時節が来たので当山に帰るであろう」と言うお告げがありました。翌日山に登りお堂を開いてみますと、昨日まで居られなかった本尊様がお帰えりになられました。以後、子授け観音とも言われています。

今この御本尊様を秘仏として、住職一代に一回の御開帳としています。